工藤ちか子の blog

看護師として働いた25年の経験を生かして誰もが自分らしく暮らせる社会を目指します。

沖縄平和ツアーその6(沖縄陸軍病院)

 

3日目の宿泊場所は読谷村です。(8年前の同じペンションに泊まりました)辺野古から嘉手納基地にも見学いたしました。嘉手納基地は有名ですが、見学できるペデストリアンデッキが増築されていて、見学者が多くいました。マニアの方が大きなカメラで戦闘機をとらえていました。戦闘機が飛び込んでそのまま滑走路を飛び立つ音はすごいです。幹線道路なので60dBくらいですが132dBくらいになるので小さいお子さんは泣いちゃうんじゃないかしら。健康被害があってもおかしくないです。

読谷村役場の敷地内に9条の碑、図書館には9条文が掲げられて

 はじめて読谷村に来た方はとても感動していました。ぜひ写真をと言われ、撮っていただきましたが、8年前も同じように感動して娘と写った事を思い出しました。その娘もこの秋子ども2人の母親になります。平和を次世代に・・・私たちの課せられた責任です。

最後の企画「沖縄陸軍病院」のある南風原壕群20号へ

自然豊かな南風原町黄金森公園

沖縄陸軍病院は熊本に第32軍の陸軍病院として編成。1944年(昭和19年那覇市内で活動開始したが10月米軍の空襲によって施設が消失。南風原国民学校校舎に移転、その後、黄金森などに約30の横穴壕を造設。1945年(昭和20年)3月下旬陸軍病院は各壕へと移っていきます。

軍医・看護婦・衛生兵ら約350人、ひめゆり学徒222人が教師18人に引率されて看護補助として動員されます。次から次へと担ぎ込まれる負傷兵を献身的に介護しますが、医療品や食料が間に合うべくもなく、麻酔なしで下肢などを切断。おにぎりは1日1個など悲惨な戦場と化していきます。横穴は縦横180cm穴幅の半分は木製簡易ベッドになるので壕内は人がすれ違うこともやっとという中、ケガの膿や排泄物の匂いで耐えられなかったそうです。(証言者ビデオより)何のための戦争だったのか・・。国民の命より大切な大義があったのか?このような歴史を2度と繰り返してはいけない!

壕群20号の見取り図と9条の碑

現地の解説者の方とヘルメットをかぶり、一緒に壕の中へ懐中電灯がなければ真っ暗です。声を出せば壕内に響きます。「お母さ〜ん」「痛いよう〜」「日本は負けないぞ」などの声が壕内に響きわたっていたそうです。そして1945年5月下旬第32軍司令部は摩文仁糸満市)への撤退命令をだし、重症患者は青酸カリが配られます。自決をまぬがれた方は「白い液体を渡されて飲むように言われたが何なのかわからなかった」「舐めてみたが苦い薄めて飲んだら激痛が走り、思い切り吐いて死なずにすんだ」(証言者ビデオより)

南風原町は1990年(平成2年)戦争の悲惨さを伝える証として、町の文化財に指定。

2.26緊急集会県庁前で「島々を戦場にするな沖縄を平和発信の場に」(北上田毅さんのブログ)

あらたな戦前にさせない!

守ろう平和といのちとくらし

2030憲法大集会            5月3日の有明防災公園には25000人!

沖縄と連帯して軍拡を許さない運動は続きます。

最後までお読みいただきありがとうございました。沖縄平和ツアーは来年も企画するそうです。ぜひ足を運んでみてください。

沖縄平和ツアーその5(辺野古キャンプシュワブへ)

<ツアー3日目>

ツアーのメイン企画は辺野古新基地建設反対の座り込み参加です。8年前は新基地建設予定地に向かってシュプレヒコールをあげましたが、現在は埋め立てがほぼ最終段階に入って、海上から3Mの大きな擁壁が・・・・。

辺野古港には沖縄防衛局の監視船、新基地建設反対小屋

 月曜日の午前中はどなたもいらっしゃらない静かな浜辺です。1km先に埋め立て地、ほぼ終了したが、地盤が弱いため沈み込んだら埋め立てるということになり、膨大な税金が使われ続けるとも懸念されている。金網のすぐそばに警備員が直立不動で監視していた。しばらくしてから沖縄県警のパトカーが浜辺に横付けしたが、一行が引き上げるのを確認して走り去った

辺野古の浜辺と埋め立て地(ぼやけました;)

辺野古座り込みの現場はここからバスで15分くらい、すでに地元の方々関係者が訪れており埼玉県からきたことを知ると歓迎の拍手、現地で活動している翁長さんから説明を受けました。土砂の搬入は赤土が海を汚染する。大型トラックの搬入を防ぐべく県民の人たちが頑張っているetc現状報告がありました。

翁長さんとキャンプシュワブ前の座り込みに参加

録画もしましたがどのようにして添付できるのかわかりません。残念ながらリアルにお伝えできません。その代わり4年前の動画(琉球日報の取材動画)を見つけましたので添付します。


www.youtube.com

つなぎ(迷彩服ではないが自衛隊員っぽい)と軍靴を履いた沖縄防衛局の人たちが、大型トラックがゲート前に連なると、座り込んでいる県民や関係者をごぼう抜きのように強制退去させるのですが、コロナ感染の予防のためにも自ら退くように指導が入りました。緊迫した様相を呈していましたが、防衛局の方は丁寧な対応でした。

 

土砂搬入現場と座り込み行動

辺野古移転が沖縄の負担軽減」を盾に県民の民意を無視してアメリカ言いなりに軍備拡大は本当に認められません。大浦湾の埋め立てもこれからだとすると、後何年かかるのか!?そして膨大な予算を使うのか?!こんなことをしていないで、東南アジア諸国のように、外交努力を徹底してやるべきです。日本政府は憲法9条を生かした平和外交こそ求められています。

沖縄平和ツアーその4(高江の森へ)

ツアー2日目は高江の森(やんばるの森)の監視小屋(ブロッコリー小屋)宿泊するのですが、その前に沖縄の最北端、辺戸岬にある祖国復帰闘争の碑を見学しました。沖縄の西海岸を北へバスで約2時間。

祖国復帰闘争の碑(HPから)と辺戸岬

石碑の後ろに与論島がかすかに見えるそうですが、お天気が悪く見えませんでした。28度線の海上では、本土復帰を先に果たした与論島の島民は今度は沖縄だと沖縄返還の旗を掲げたり、岬では与論島の島民が辺戸岬の焚き火に応えるように焚き火を燃やし、連帯を確かめ合ったそうです。その9年後沖縄復帰が果たされましたが、闘争の碑の下にかかげてある碑文は返還の喜びとは全く違うものでした。

<祖国復帰闘争碑> 後半

1972年5月15日沖縄の祖国復帰は実現した

しかし県民の平和への願いは叶えられず

日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された

しかるが故にこの碑は

喜びを表明するためのものではなく

まして勝利を記念するためにあるのでもない

闘いを振り返り大衆が信じ合い

自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり

人類の永遠に生存し

生きとし生けるものが自然の摂理の下に

生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある

 

う〜む。昨今の日米軍事同盟の強化、安倍政権の負の遺産「台湾有事」とウクライナ情勢を受けて改憲や敵基地能力の保有を肯定する流れにある中で「沖縄がまた戦場に」と報道されている現状を顧みれば、この碑文にあるように私たちの島がまた戦場になるという警告のように聞こえてきます。沖縄県民の不屈に学ばなければいけない。思い浮かんだのは今は亡き翁長元県知事が言った「勝つためには諦めないこと」という言葉でした。

住民の運動は続いています。

8年前に高江に来た時は「高江にヘリパッド建設反対」の監視小屋がありましたが、今は監視小屋は撤収してブロッコリーハウス(ここでも監視は続いているようです)という宿泊施設があります。

すでにヘリパッドが設置されているにもかかわらず新たに6ヶ所(すでに建設)

上図のように高江を取り囲むようにヘリパットが建設され、住民は爆音・低周波・振動などで子どもたちを避難させなければならない事態(2016年6月)を生んでいます。

2017年7月26日に奄美・沖縄北部(やんばるの森など)がきわめて貴重な生物や生態系を有していると、世界自然遺産に登録されています。そのやんばるの森にヘリパット(弾薬や燃料などが無造作においてある)があっていいのか?政府の環境庁では相手にならない、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会にやんばるの森の惨状を理解してもらうしか道はないのか?闘いは続く。

沖縄平和ツアーその3(反戦平和資料館など)

沖縄平和ツアー2日目のメインは「ヌチドゥタカラの家」反戦平和資料館です。その前に「伊江島ってどの辺にあったっけ?」という方のためにご説明いたします。

伊江島の概要

北緯26度42分〜26度40分 東経127度44分〜127度50分沖縄本島から9kmです。伊江島の広さは周囲22.4km・東西約3.6km・面積23km2

伊江島のハイビスカス・ガジュマル
伊江島港と港から城山を望む

伊江島は川の土砂が海に流れ出ないように堰き止めて海が濁らないように工夫しています。ですから海底まで透き通って見えるくらい綺麗。

ツアー一行は昨夜の酒盛りどんちゃん騒ぎをもろもとせず、向かい酒を楽しんだ後反戦平和資料館に向かいます。

ヌチドゥタカラの家と阿波根昌鴻さん

阿波根昌鴻(あはごんしょうこう1901 .3.3〜2002.3.21)さんを抜きにして伊江島の戦後は語れない、資料館の創設者、生涯を平和運動にささげ「沖縄のガンジー」と呼ばれた方です。

沖縄戦で最愛の息子を失い、生き残った島民とともに米軍によって、慶良間諸島強制移住させられ、2年後島に帰ることを許されますが、破壊された土地を耕し、家を建て生活を立て直していたところ、米軍に土地を奪われます。

土地を奪われた島民は、生きるすべを失い、沖縄本島を「乞食行進」して訴えて回ります。人々の願いも虚しく、島の67%が米軍基地になりました。その後は米軍による事件事故が絶え間なく続きます。1972年沖縄は復帰しましたが、土地が全面返還されることなく、現在も島の35.2%は米軍に奪われたまま戦争の訓練に使用されています。

阿波根さんは島民とともに、非暴力の抵抗運動を続け、運動の記録(当時入手困難だったカメラで)や資料を残す事業を行います。こうした資料を活用して1984年共に働き、学び合う場として「わびあいの里」を開設しました。開設以来、修学旅行生をはじめ多くの人々が資料館を訪れています。

資料館の門前に掲げられている碑
資料館内に展示されている(これらはほんの一部)

村役場に隣接する砲撃を受けた蔵

外壁には銃の弾が何十発も・・戦争の恐ろしさを忘れないために唯一残している住居址です。近くにハイビスカスの花が綺麗に咲いて、心が癒されました。伊江島の平和ツアーは「アニーパイルの碑」「ニャティヤ洞(千人ガマ)」にも足を運びましたが、この辺で続きとさせていただきます。お読みいただきありがとうございました。

市道の縁石改修工事が10分で終了!

三郷吉川線の沿道に三愛会病院が設置されましたが、西北にある交差点の縁石が大型車の後輪に削られるように壊れてしまう状況があります。

2年前の縁石

2年前の縁石

道路河川課で直してもらいましたが、今年に入って近隣住民から自転車で走行するのは怖いと連絡をいただきました。直接市にお願いしていただたいて、先日改修工事をしていただきましたが、工事車両がついて終了するまで10分位でした。

これでしばらくは大丈夫でしょうか?

どんな小さな事でもご相談ください。

沖縄平和ツアーその2(伊江島へ)

那覇空港から伊江島

羽田空港に集合したのは19人、自治労OB、弁護士OB、新婦人の会など男性15人女性4人、88歳から50代の現役の方までもちろん皆さんは平和委員会の会員・読者です。(羽田の搭乗口ロビーでビール缶を開け始めたのには驚きました。笑)

那覇空港に到着して観光バス(小型)に乗車その足で本部港に向かいます。車内のお弁当は鈴屋弁当よりもボリュームあり、高齢者の方々に食べれるのかと余計な心配をしましたが、美しい海と気温と湿度の高い空気にくらくらっとしました。

フェリーは伊江島の約35%(戦後は60%)の米軍基地があり国の交付金で購入

35%の軍用地内でも住民の使用が黙認されている土地がありますが、こうした民有地は政府が契約拒否をした地主に対して自由に土地が利用できない形で返還した部分。牛の牧草地になっています。その一角に団結小屋が設置されています。

伊江島団結道場

戦後の米民政府による土地撤収は、住宅を壊し、農作物を焼き払われる惨状に島民たちは県下を行進し訴えます。ここは島民が団結して戦うために造られた教育の場所。学習は力、学んでこそ戦えると言われているようです。

米軍と対峙するときの心構えまで表記しています。「耳の高さより上に手を挙げるな」「大声をあげず、穏やかに話そう」etc
湧出(ワジ)地下水が沸くところ、孤島なので水を確保する事も大切。雨水貯留施設も多く見る。

沖縄平和ツアーはまだまだ続きます。(次回をお楽しみに)(^^)

沖縄平和ツアーへ

岸田自公政権が、敵基地攻撃能力の保有閣議決定したのち、財政民主主義をかなぐり捨てて、軍事費2倍、GDP比2%という世界第3位の大軍拡を実行しようとしています。国会は民意を無視した体制翼賛政治が横行し、充分な議論がなさえないまま、悪法が成立していく動きです。このような中、私たちは何をしなければならないのでしょうか?そう考えた時、沖縄ツアーのチラシが目に入りました。 「学習が力になる」と思い、改めて戦争の悲惨さ平和と命の尊さを体現したいと参加を決めました。ご協力いただいた皆様ありがとうございました。

ツアーの内容は明日からの連載でアップいたします。お楽しみに。